昭和49年05月18日 月例祭



 お道の信心をさせて頂き、そしてその信心の稽古をさせて頂くと言う事は、結局は神も助かり氏子も立ち行くというおかげを頂くと言う言にあるのです。「神も助かり氏子も立ち行く」。言うなら「神も喜び金光大神も喜び氏子もの喜び」と言う様なそういうおかげを受けてこそ、金光様の御信心を頂いておる。また頂いていく焦点がそこに置かれなければならないと思うのです。
 聞こえますでしょうかそこ。<そうそのへん>聞こえますか、今日は肉声で。(笑)それをまたの言葉で言うならば、極楽行きを目指すと言う事だと。お互いがああ本当にこれが極楽だろうと思われるような生活をさせて頂き、お徳を頂いてあの世にも持っていけ、この世にも残しておけると言う様なおかげを頂くと言う事にあるんだ。そこで私はあのう、思うのですけれども、極楽と言う事はどう言う事かというと、ある人は「もう極楽ぐらい退屈するとこはない。
 ちゃぁんと端を落ちらないように座ってからちゃぁんと座っとられる。こげん退屈するとこはない」と言うた人があったそうですが、そう言う事が極楽ではないと思うです。例えて言うならば、もう喉が渇いて仕方がない。そこに冷たいお水が頂けれると言う事が極楽だと思うですね。喉がもう引きつるように渇いておるけれども、そこに一滴の水も与えられない。それが私は地獄だと思うのです。そりゃもう掻いしてごてんばってん、誰も掻いてくれてがないこれが地獄です。
 けれども「ああそこそこ」ちゅう様なとこ掻いてもらえたり自分で掻けたりしたら、こんなに気持ちのいいことはないですから、これが極楽です。ですから様々な痛い痒いもあって良いのであり、それこそ求めて止まない様々な欲望もあって良いけれども、それが与えられるおかげしかもそれがですね。必要なら必要に応じてそれが与えられる世界が顕現されてくる道を神様は教えておって下さっておると思うんです。
 もう七、八年にもなりますでしょうか、正木先生がここに来るまで文男さんと私と三人だったでしょうか、善導寺( ? )時分にいっぺんあちらへ連れていってもらいました。でけてまもなくでした。ところが丁度山の山頂で、いわゆる( ? )「私は喉が渇いてきたが」ちゅう。そしたらですねあのすぐそこが峠の松原があってから、その松林の中になんか冷蔵庫のようなものがこうやって転がしてありますんです。だから文男先生と正木先生が行ってから、簡単に開いて中からサイダーが出てきた。
 だから山の頂上であろうがです。海の真ん中であろうがです。冷たい水が頂きたいなら冷たい水が頂きたいと思うたらそこに水が湧いて来る様なおかげを受ける事なんです。極楽というのは。だからもう信心しよりゃ喉の渇く事もなか、痒かとこもなかちゅう事じゃあないです。成程これなら退屈しないと思うですね「ああ痒か所早う来てちょっと掻いてくれ」それまではちょっと痒かけれど、その自分の手が届く所であったり、また掻く人が丁度痒い所を掻いて「ああそこそこ」ちゅうごと気持ちがよいそれが極楽。
 私共のようにこうやって、いつもその冷たい水がなからなきゃならない。是がもし水が無かったら地獄です。又は是を飲んだら体が苦しくなると言うなら、是も地獄です。けれども、喉が渇けば渇くてです、今また私食堂でコカコーラを二本続けて飲んでるです。そしてまたこうやって頂いておる。是は喉の渇くもんでなからなければ味わえない味わいです。(笑)本当です。それは少しお行儀が悪いですわね、こうやってお話しの中でお水を頂く。まあしかしそんくらいの事は仕方がない。極楽ですから。
 けれども是を本当に辛抱しなければならないと言うならば、私は地獄だと思うです。今朝からの御理解に、この合楽食堂の中村ことを聞いて頂いた。次々と今月は各支部の御大祭が続いております。そこで段々信心が判らして頂けば頂くだけ、せめて各支部支部ぐらいの御大祭にはおかげを頂きたいと発心した。それから久留米におかげを頂き、福岡におかげを頂き、そして最後の大分の支部にもおかげを頂いた。ところが明日は久留米だからお参りをさせて頂こうと思うたその久留米の支部大祭の前日である。
 もうこげん商いがない事はないちゅう位に商いがなかったんです。こりゃ明日旅費も困るからお初穂もどうかせんならんと思うのにさえ事欠く様な状態であった。ようやく旅費と御供えが出来たから、お参りをさせて頂いたというのです。それが福岡の御大祭の時、にもそうであった。嫁は私がお参りをする事が判っておりますから「お母さん早よ参りなさらんと遅なりますよ。」と言うてくれるんだけれども、私が「お参りをしよう」と言うたら商いがない。矢張り大分支部の御大祭の時もやっぱそうであった。
 丁度朝の御祈念の後に、合楽の方達が最後に三人一緒になった。田中さん久保山さん中村さん、「今日あんたどん、おかげ頂くじゃろうもん」ちゅうたら、「さもうお繰り合わせ頂いたらおかげ頂くち思いよってん」て言う。「そげなこと言うてから、ちゃんとお参りすると腹ば決めたらちゃんとおかげ頂が」と私は申しましたから、三人は腹を決めた。 昨日が合楽会でしたが、合楽会でもそれを発表しておられますがね。腹を決めたらちゃんと次々と乗り物まで行き戻り車に乗してもろて帰って来た。
 そしてその中村さんじゃないですけれどもです、たしかに御大祭に御参る、今度は三回が三回ともそうであった。御参りをするというその前の日に商いがなかったけれどもです。帰って来るとね、もう嫁がにこにこしてから、「お母さんあなたおりなさらんでも、商売できますよ」と言うて、昨日の分まで売上げるくらいに、しかも三回ともそうであったちゅう。だから自分が大祭参ってさえおりゃ、家はもう商いが繁盛するという自信がついたような感じである。
 これがね神様が言うならば『神の用を足せば、氏子の用は神が足してやる』と仰せようなのはこう言う事であろうかと。心を自分が神様に向けてさえおきゃ、家の事は商売が慣れない嫁ごがしてでも、なら自分が中心になって働いておるときよりも、倍の売上を頂いておると言う事実が、しかも三回もこう続いてみるとです。神様に心を向けると言う事は、こんなにも有り難い事だろうかと言う事が分かった。
 嫁ごも商売に自信がついた。かえっておっかさんがおんなさらん方が商売があるというふうに思うようになった。中村さんがその時に思われたと。自分が明日は久留米の御大祭にお参りさせて頂こうと思うておったら、その前日はです。商いがなかった自分が参るまでも、ようやくお初穂と旅費がある位じゃった。帰ってみたら売上が倍増しておった。「これが、神様のおためしというものであろうかと、思うようになった。」と
 言っております。「お参りしようと思いよったけれども、その商いがのうしてからもうがつがつじゃったからお参りもでけじゃった」「お参りしようと思いよりましたけれども、乗り物がなんだから、とうとうご無礼しました」だから、こういう信心をいつまで続けておってもです、この信心では極楽行きは出来んですね。ただ願ったことをお取次を頂いてお願いをして、まあおかげを頂いていくということはあってもです。
 私この辺の所にね愈々久留米の佐田さんではないですけれども、人力あの倉庫が焼けました。今日その沢山写された写真を持ってみえておられるのを、見せて頂いてからまあ沢山なものが灰になったな。もう乾物と缶詰ですからねもう山積みしてある。けれどもその燃え具合のよか事、もう今日奥さんが夕方参って見えた時の事、もう誰が見てもですもうおかげといわにゃあおられないという程しのいわば燃え方が良かった。
 そういう例えば事の起こる前日に、ご主人がお夢を頂いておられました。というのは自転車に一升瓶を積んでおると言う所であった。所が自転車で行きよるうちにあら一升瓶ちゅうやつは、横に置いたらかならず割れるです。縦にしときゃがちゃがちゃいうたって割れん。けれども横にこう積んでおったもんですから、それがちゃんと割れて中の酒が出てしもうたと言う様なお知らせであった。だから私は「佐田さん、愈々人力の限りに見切りをつけなきゃならん時期が来たね」と申しました。
 自転車と言う事は、自分で踏まんならんと言う事です。自分の有難き勿体ないであるけども、こういう信心はもう言わば「これに終止符をうつ時期がきたぞ」と神様は言っておられる。是からはいうなら自動車にね、言うならば徳の車に乗せて頂けれる、言うならば、人力の限りを尽くした。そしてその人力に見切りをつける時が来た。そして無限の神力に縋らして貰う所からです。
 是から湧いてくるであろう無限の人力というもの、人間の心にもこういう底の底には、力があるんだという、限りない力が湧いてくる、おかげが頂けれるようになるんだと。そういうお知らせをその火事に焼ける前の朝のお届けの時になさっておられます。それを言ってからお参りの佐田さんが、ご覧になってから思われたことは、「はあ、昨日、お知らせをお夢で頂いたのはこのことだったなあ」と思うたと、これが一番初めに思うたことだというて、その晩、御礼に出て見えて佐田さんが言うとられます。信心の稽古て素晴らしいですね。
 燃えよるとをて見てから、これがおかげ、奥さんなんかはその日はもう嬉しゅうして嬉しゅうして知らごとのあるけど、有難うしてこたえん。お母さんが、「笑うとはやめんなら、人がよくお思いなさるよ」ちゅう、言うお母さんも嬉しゅうごたるじゃった。というようなね、例えばそういう例えば難儀災難に遭いながらです。そこから湧いてくる喜びというか、有難いというか、嬉しいというものは、どこからどうすりゃ出てくるだろうかと言う事なんです。是なんかはもう極楽ですよね。
 もうそれこそ気もてんとうせんばかりに、「さあどうしようか」と言うのではなくてです、「はあこれでお取り払いを頂いた」と言う。それはわけが分からんのですよ。大難を小難というか分からんのだけれども、有り難かったと言う事だけは事実である。あくる日になったら本当にただ嬉しゅう嬉しゅう有り難い有り難いじゃなく、是だけのものを灰にしてから、本当に神様相済みませんという心が起って来たけれども、結局はまた有り難い事に成って来た。
 私は昨日、昨日一昨日、昨日でした昨日、その超特別席の浪花節の券を高橋さんが三千円も出して、買うてきてくださってあった。私と繁雄っちゃまとまあ行くように、昨日だけが一日あいてると。今日は結婚式があり月例祭、その前は大分支部の大祭、丁度十七日に久留米にその日本一のその顔ぶれの浪花節が八人か九人か来るって訳です。こりゃもう好きな人の聞き逃す事の出来ない、言うならそのあれ、繁雄さんちゃんとその切符を用意してきておられました。ところがそれ一般席であった。
 それではあんまりだからといって、高橋さんが二枚用意してきて下さった。それを家内が預かっておった。それがそしてなくなった。家に行くとあの大分から帰ってから、もうなんかえらいこうひきちらかして探しておりますもん。そしたらその「高橋さんから預かっておった切符がない」ちゅうわけです。私はそれを見てから思うたんです。「もう探さんでよかか。それはもう神様が行くなと言うなさるとじゃから。
 それはもうあの探さんでよいよ。」というてそれでもやっぱ自分が責任があるもんだから、遅うまで探しおりましたけど。とうとう昨日の朝まで昼頃まででも出てくるなら、まあ行けるのでしたけれども、とうとう昼まで出てこん。いやもう取り合えずとうとう出てこなかった。そういう時に私はこの責めんで済むと言う事ですね。「あんたが悪いんでろくそなけで無くす」と言う事を言わんで済むと言う事。
 もうその時点でです。あっこりゃ神様が私共が浪花節聞くとは言わばお嫌いになるんだなあ、差し止めておられるんだなあと。昨日私が残りましたら、私じゃなからなきゃならん人が、いくらもやっぱり参ってきました。そう言う様なですね、だから私は昨日もここへ座ってから、それでもやっぱ三千円もするお金を、ふいにしたんですから、佐田さんじゃないけれども、これだけのものを灰にしたと言う事は、神様に対して相済まんと、いう心がおこんなさったように。
 私も三千円というその金を、無駄にしてしまったと言う事を、神様に御礼をもうさせて貰いよった。そしたら神様から『宗教』と言う事をね、キリスト教とか仏教こりゃ宗教ですね、金光教という宗教なんです。宗教とはと言う事について頂いたんです。宗教とはね、あれは、う冠に示すね、う冠に示すと書いてあるです。と言う事はう冠と言う事は、宇宙のうであり、天地の神様と言う事なのです。宗教とは天地の親神様がです。示して下さる事を教える事だと頂いたんです。
 もう私はこれを頂いてから、神様の知恵ちゃ素晴らしいと思った。宗教とは何ぞやと言うて一冊の本を読んでも、はっきり判らないと言われておる位に難しいんです。宗教とは何ぞやということ。だからこれは、あの人間の頭から出たことを教えるのもなからなきゃ、道徳的な事でもなからなければ、修養でもないです。信心の道ばかりは、どこまでも天地の親神様が示して下さった事を、それを間違いなく教え伝えると言う事が宗教なのです。だからこういう素晴らしい、言うなら御教えをね。
 その三千円の切符をなくしたおかげで頂いたと言う事は安いものではないかと言う事を頂いた。それを聞いて佐田さんが例えば初めの間は、嬉しかった有難かった、二日は少し相済まん事であったと気がしたけれども、その御理解を頂いて、成程山ほどのいうならば、商品を焼いたということは、相済まないと言う事であったけれども、そこからね私共がこういう有難いものを頂いておると言う事を、改めて気付かせて頂いたと言う事は、やっぱり有難い事だと言う事になった
 。「少し元がいり過ぎたようだけれども、それを判ったと言う事は、安いものだと言う事になった」というて、今日は佐田さんお届けしておられます。そこで私は思わせて頂くのですけれども、信心のギリギリの目標というのが、いわゆる極楽行きにある。毎日が有難い勿体ないという世界に住む事である。その有難い勿体ないと言う事は、ああ病気もしなければ災難もない。雨も降らなきゃ風も吹かんという世界ではなくて、雨もあれば嵐もある、病気もすれば風もある。
 けれどもそういう時に嬉しいとか有難いとか、「ああ気持ちがよか、そこそこ」ちゅうことなおかげが受けられるのならば、それがおかげである。それがいや極楽であると言う事。喉が乾いて仕方がない、そこに冷たいお水があるならば、これは極楽だと言う事。痒いとこがあってもです。それを誰かが掻いてくれる。また手が届く所であるならば、もう是はこんなに気持ちの良い事はないと言う事。是が極楽なんです。だからそういう例えばおかげを頂く事の為にです。
 今私が皆さんに聞いて頂いた中村さんの話。中村さんは大分支部でもうとにかく三回目の大分支部の御大祭を頂きながらも、有難うして有難うしてこたえんじゃった。それこそ豪華絢爛のあのお祭を拝ませて頂きながら、まあ人間には随分段々ががあるもんだなあと。本当におかげを頂いて、私達もこういうお祭が出来るようなおかげを頂きたい。最近あちらのおばあちゃんが亡くなったと同時にもう立派な八足が出来た。それから改式も出来て、そして月次祭のたんびにこの頃は私が中心になってお祭を仕える。
 もうどこからともなしにです御供が集まってくる。二階にお祭りしてあるそうですが、御霊神様も何か知らんけども、二階に上がって行くとおばあちゃんが喜びよるのが心に伝わって来る様な感じがする。今朝も今日のお月次祭に併せて、私の方でもちょっとお祭の形をさせて頂くというて。そういう例えば有難いというものが育って行くと言う事。有難い、有難いで拝まして頂きよったら、神様からね御心眼を頂いた。三吉という梨があるでしょ。こんなこう大きな梨がねあの梨を頂いた。
 梨と言う事はむなしゅうと言う事、無しと言う事。言うならば自分の事は捨てて、神様の方へと言う時には自分というものを虚しゅうしておる時なんだ。我情我欲を捨てておる時の姿なんだ。しかもそれは三吉である。それこそ神も喜び金光大神も喜び、氏子も喜べれる時であるというお知らせを頂いた。そういう信心がお道の信心であり、そういう信心が愈々育って行くと言う事が信心なのだ。
 そこで私は思うんですがね、お互いが痛い事もあれば、喉が乾く時もあるけれどもです。さあ中々苦しいさあ段々そのごろりんしょうごと苦しい。喉が乾く時にそれこそもう本当に喉から手が出るごたるけれども、それが与えられないという苦しみが、なら皆さんの場合もあると仮定しますか。あるならば皆さんは、今極楽に行っていないのだから、けれども極楽行きの道をはっきり教えて頂くお取次ぎを頂いてです。
 今まで苦しいと思うておった事は、反対に御礼ば申し上げねばならないような意味合いが段々判ってきて、苦しいけれども有難いと言う事の所を、皆さんが通っておるような感じがするんです。極楽とは地獄の釜の底を踏み抜いた時に、そこの下にあるのが極楽だとも言われておる。だからね「桜の花の信心より梅の花の信心をせよ」と仰られる。華やかなぱあっとした信心よりもです。「梅の花のような辛抱強い信心をせよ」とこう仰る。でなかったら、言うならば徳にはならん。実りにはならん。
 桜の花はいかにも華やかですけれども散ったら後は寂しい。花は散っても後に実が残る。しかもそれは梅干しという、何時までおいてもよいような、お徳の実が実るのである。そこでね私どもがそういうじっと歯を食いしばって辛抱しなければならない時にです。痒いから掻いて下さいという時にです。掻いてもらえりゃそれでよいのです。けれどもこれが今、私のめぐりの取り払い頂いとる。
 いまが修行の真ん中だと思うてじいっと辛抱させて頂いておると、その痒さが何時かなくなって、おかげを頂く世界がそこから開けて行く。 喉がどんなに乾いてもです、本当に辛抱し抜いたらです。後は乾かんようになってくると言う事です。その先に極楽があるということ。そういう意味で私どもがですね。痒いけれど掻いてくれる人がなかった。喉が乾くけども一杯の水も与えられないという時代があった。
 そういう時を今から考えて、佐田さんじゃないけれども、こういう苦しい中に、「大坪さん本当にそんなに有難いですか」と言われるくらいに有り難かったです。もうすでに御気楽行きの稽古をしよったわけです。そしてまた今申しますように、「私がああ喉が乾く、飲みたいな」と言うたら、耳納の山のてっぺんでもです。ちょっと冷たいサイダーが飲めれるようなおかげを頂いておる。
 私が「玉露を頂く」と言えば、誰かが羊羹を持ってきよる。「お金がいる」と言やあ、ちゃんとそれだけのこと整うてくる。「痒いか」と言やちゃんと掻いてくれる人がある。これを私は極楽、言うならちょっとした極楽の私は見本だと思うのです。信心のギリギリの究極はねところはこの極楽行きの稽古をすることなんです。そこでです矢張り人事の限りを尽くさせて頂いて、佐田さんじゃないけれども、自転車で一生懸命な所を行ったけれどももうここにです。
 いうなら人力から神力に変わろうとするときに、この一升瓶は割れてしまった。そして新たな信心、神力にすがらなければならないときになってきた。そして神力に縋り抜かせて頂いてです。人力おのずから湧いて来ると言う様な、おかげの世界に出られた時が、本当のおかげの世界だというふうに思います。極楽と言う事はけっして痒い所もない、喉も乾かんと言う事だけでは決してありません。喉も乾く痒い所もあります。けれどもね喉が乾く時にはその冷たいものが与えられる。
 痒い時にはちゃんと掻いてくれる人が傍におると言う様なおかげを頂くと言う事が、私はこの世での極楽であると思います。勿論あの世の極楽においても、必ずしも蓮のお棚の上に座っておるというだけが極楽じゃないと思う。言うならば極楽行きの稽古を本気で私どがもさせて頂いて、いわゆる限りないおかげの世界につながる。そこん所を私は信心辛抱、いわゆる梅の花の信心をさせて貰える。その焦点として内容としてです。自分がおかげを受けた、受けたと言いよるが、神も喜び金光大神も喜んで下さっておるだろう。
  (テープ切れ)